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  闘牛士な生き方  (2004.08.15)
 カルメンの主要4キャラクターのうち、私が一番好きなのは、なんといっても闘牛士、エスカミーリョです。
 私がカルメンを見たときの第一印象は、「闘牛士バカでいいなぁ」でした。
 最初に見たカルメンは、フランチェスコ・ロージー監督の映画版だったんですが(エスカミーリョはライモンディ)、第3幕、山奥の岩場(断崖絶壁のかなりの山奥、という雰囲気でした)で休憩中の密輸団のもとへ、馬に乗って唐突に出現し、何を言うかと思えば、「カルメンに会いに来た!カルメンの恋は半年と持たない。もう脱走兵とは切れてるはずだ!」と絶叫。
  「こいつ、バカだ・・・」
 もちろん誉め言葉です。念のため。^^
 「闘牛士 = 愛すべきバカ」という方程式をさらに確定させたのが、メトロポリタンのライブ映像、レヴァイン版カルメンに登場する、サミュエル・レイミー扮する闘牛士です。「闘牛士の歌」では、登場するなり帽子を放り投げ、階段を颯爽と駆け下りてきて、その勢いを借りて机の上に飛び乗り、机の上に仁王立ち。腰に手をあて、風呂上りのオヤジよろしく酒を一気飲み。乾した盃を放り投げたかと思えば、机の上からジャンプ一番、歌いながら飛び降ります。女性の赤い肩掛けを借りてぶんまわしたり、肩掛けをムレタ(闘牛士が牛をいなすときに使うお馴染みの赤い布)に見立てて闘牛の真似ごとをしたり。もろ手をあげて獰猛な牛のジェスチャー。最後は剣で牛にとどめをさすアクションをするわで、もう舞台上所狭しと暴れまくりです。終始底抜けに明るい満面の笑顔で、めちゃめちゃ楽しそう。闘牛士というよりカウボーイですなこれは(アメリカ人だしね、レイミー)。
 しかも、バカなだけではなく、歌の実力も素晴らしい。すずめさん曰く「牛も逃げる」ほどの圧倒的な声量と、アクションを多用しても歌がまったく乱れることのないその歌唱力。華やかな声の音色はまさに闘牛士にぴったり。地元贔屓ということもあるでしょうが、メトロポリタン歌劇場は、割れんばかりの大喝采。カレーラスの花の歌よりも、バルツァのハバネラよりも拍手が長い。レヴァイン版カルメンの「闘牛士の歌」は、何度リピートしたか分かりません。
 第3幕もいい。ホセと闘牛士の決闘を止めに入ったカルメンシータが発した、「やめて、ホセ!」という言葉に即座に反応、「うれしいぜ、カルメンが俺の命を救ってくれたとは・・・」 超前向き、プラス志向の塊ですね。この時の「俺、マジ感動!」というレイミーの表情もあいまって、このシーンは何度見ても笑ってしまいます。恋愛に関してはネガティブ・シンキングになりがちな私ですが、少しは見習ったほうがいいかなぁと思ってしまいます(本当に少しだけ、ですよ)。
 「闘牛士、バカでいいなぁ」と喜んでいただけの私を、深い考察に誘ってくれたのが、すずめさんのカルメン評でした。そして、すずめさんの文章に触発されて自分なりに闘牛士について考えた末、自分が一生のテーマとして取り組んでいる「課題」に、密接につながっていることに気づかされました。
 人間は弱い生き物です。そして、自分を守るために、心に「鎧」を着込んでしまうことがあります。
 たとえば、「常識」「ポリシー」などと呼ばれる固定観念。「あぁ、○○はそういうもんなんだよ」「あの人はそういう人なんだよ」といった一言で、物事を片付けてしまうことってありませんか? 本当はきちんと向かい合って考えなければいけないこと、特に、実は自分の心に深くささる可能性のある、辛いけれども、しかし大切なことについても、このような一言を使って逃げをうってしまうことがないでしょうか。
 「○○は××なんだ」といった具合に、身の回りのことをすべて決めつけて、人の意見を聞かない人、身のまわりにいませんか? そのような人を見ると、私は「鎧を着てるなぁ」と思ってしまいます。一見すると傍若無人極まりないんですが、本当は痛々しいまでに繊細な人なんだと思います。心をさらして物事を見ることができないから、鎧を着て自分を守ろうとする。自分の聖域を侵すような「突っ込み」を入れる人には、あれやこれやと理屈(=鎧)をならべて、自分の鎧を無力化されるその恐怖心から、烈火の如く怒り出して反撃してしまうことになります。
 社会的地位、名誉、財産なども、鎧となり得ます。これらのものがそろえば、なんだか偉くなったように感じることができ、自分がちっぽけな弱い人間であることを忘れさせてくれるからです。
 地位や財産といった鎧をはぎとられ、人間が裸になってしまう事例として、私の大学時代の恩師は、自らの入院体験を話してくださいました。私の先生は、隣のベッドにいた別の患者さんに「○○大学の先生」とは呼ばれず、「自然気胸(病名)のあんちゃん」と呼ばれていたそうですが(病院ではみんなこんなかんじらしいです)、この呼び名がすべてを象徴していると思います。病気の前にあっては、人は鎧を剥ぎ取られて裸で放り出されるしかないのです。
 鎧を着ると、自分が強くなったような気がして安心するわけですが、着込めば着込むほど、身動きがとれなくなっていきます。自らを縛る鎖となり、どんどん生きづらくなっていきます。鎧に押しつぶされている人は、自分がなぜこんなに苦しいのか理解できません。自分が苦しんでいることすら、認めようとはしないでしょう。
 鎧の弊害は他にもありますが、ここでは2つ、挙げておきたいと思います。
 1つは、人間的成長が阻害されることです。記述したように、鎧に頼って物事を深く考えませんから、「思考停止」に陥ってしまい、深い内省もなされませんので、精神的な成長は期待できません。
 人間的成長=自らの着ている鎧を破壊すること、と言い換えることもできます。鎧を脱ぐことはとても恐い。自分自身を裸で放り出すことになるわけですから。しかし、これを乗り越えないと、新たな価値観を獲得し、視野を広げ、人間として成長することはできません。
 前述した私の大学の恩師は、勉学もまた鎧を破壊する作業なのだ、とおっしゃっていました。あたりまえだと思っていることにメスをいれ、調査・研究を行い、それを見直し、既成の観念を打破していく。ときにはその既成観念に頼っていた自分自身をも否定することになるつらい作業となるわけですが、それがなければ成長はありえないのです。
 ただ、勉学は「諸刃の剣」で、心がけしだいでは、むしろ勉学により鎧を着てしまうことにもなります。勉学は、思考する上で便利な道具を与えてくれます。それに頼りきり、なんとなく賢くなった気になって、自分の都合のよい時だけそれらの道具を持ち出して、知ったかぶって理屈を並べ立てる。中途半端に頭のいい人が特に陥りやすい落とし穴です。
 鎧を着ることのもう1つの弊害は、人間関係が疎遠になってしまうことです。鎧を着込んだ人は、心を他人にさらして人と接することができません。そんな人と話していると、「なんか、遠いな」と感じてしまいます。
 随分と偉そうなことを言ってきましたが、私が「心の鎧」についてこれほどまでにこだわるのは、何を隠そう私自信が、鎧を着た人間であるからなのです。
 忘れもしない、大学の卒業論文発表会。本章でしばしば登場した大学の恩師は、私の卒論をメッタ切りにした上で、「君は鎧を着ている」と言い放ったのでした。またある時、長年付き合った恋人に、「心が遠くて寂しかった」と言われて去られました。本章でだらだらと述べてきた、鎧を着ることによる弊害は、私自身の体験談でもあるのです(社会的地位や財産はこれっぽっちもありませんが)。いかにして鎧を破壊し、裸で生きていけるか、卒論発表会以来、私の一生のテーマとなりました。そのことに気づかせてくれた恩師とかつての恋人には、今も大変感謝しています。
 すずめさんの闘牛士評を読んで気づかされたのは、「エスカミーリョって裸で生きてるんだ!」ということです。2幕でカルメンシータを口説いてつれなくされても、「じゃぁ俺は待つよ」と余裕たっぷり。3幕でカルメンシータよりも先にホセとはちあわせとなり、ナイフで襲われてもやっぱり余裕たっぷり。「危機的状況を楽しんで」います(すずめさんのサイトより引用)。
 彼は地位も名誉もある闘牛士ですが、そんな「鎧」は、襲いくる牛には当然ながら通用するはずがない。常に「死」と背中合わせで生きている男、エスカミーリョにとって、頼ることのできる鎧などは存在しない。鎧を脱ぎ捨て、裸でいるからこそ、危機的状況でも恐れることはない。鎧を着込み、恐々と生きている人間とは正反対。防御装置を着込むほど恐怖は増し、脱ぎ捨てれば恐怖から解放される。逆説的です。
 こうして、闘牛士は、「愛すべきバカ」から、「人生の師」へと昇華したのでした。 本当に見習っていいのかなぁ・・・
 勉学は鎧を破壊することにも、着込むことにもつながる、と先ほど述べました。カルメンについていろいろと調べて、本サイトで述べているわけですが、これも一種の勉学であり、一歩間違えれば鎧になってしまう可能性があります。「こいつ、鎧着てるな」と感じることがありましたら、私の恩師の如く、ずばっと指摘してください。
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